<イッポンでもニンジン・・・ニホンでもサンダル?>
ヒトの赤ちゃんは生まれてすぐにオムツを着けられ、濡れると不快感
で泣いて親を呼び、不快感から快の転換を味わい、伸び伸びして親の
愛を確認し、全脳とからだの形成は進行している。
この繰り返しにより脳は、感覚と感情をムスビつつ、「環境」の基礎で
あり土台を構築することができるようである。
よく「三つ子の魂百まで」というけれども、この絶対的安心感は〇歳
から三歳までに獲得されているようであり、意味がわからなくても理
解できるような、”絶対的感覚”も養っているのであろう。
操体法の臨床は「快」をききわけ→「快」を味わう→「からだ」が治す。
このような経過に、ここまで書いてきた”自己内の他者”は、「快」と
「不快」の入り混じるカオス空間での、コスモス共有感覚でもあって、
相成る(愛鳴る)「性」と、満ちし(道標)「生」の調和を現す「からだ」
の共感であり、いわば”宇宙創成”の質感を脳が認識するのであろう。
これは他者の存在が絶対的に必要であって、この他者の存在の気づき
こそ大脳前頭葉の抑止力、言い換えれば、感情制御を司る働きを担っ
ているのだが、他者から獲得した共感・共有体験が言葉に響かない故
に、溜まりに溜まっていく感情は、混沌の中に秩序があるのではなく、
秩序の中に混沌があるから生じてしまうようなもので、良いヒトから
キレるヒトへの振れ幅は著しく、自己責任分担を超えてしまいがちで、
他者責任分担を強要するような傾向を生んでしまう。
赤ちゃんが泣いても鳴いても、母親を中心とした他者の共感を伴なう
「快」の語感(快の含有言葉)を得なければ、泣き止まないのと似ている。
それでは、赤ちゃんから三歳迄に「自己内の他者」を、「環境」を通
す接触の少なかった場合、このような負の感情・感覚に戸惑っている
のだから、ただ指導するのでなく静かに洞察ししつつも”共有感覚”
を通じて”いま”理解したことを、表現で、言葉で、変化させ伝える。
「性」受精した瞬間から腸の働きが消えるまで「生」は個体となる。
ヒトは子供であれ、大人であれ、負の感情と正の感情を対にして持ち
続けているのだから、負の感情を増幅させず、感情の制御をするには
”感覚の制御”つまり、「からだ」に含有されている、”自己内の他者”
の存在により、漏電している補修しつつ「スイッチオン!」さえも可
能にするとしているのだな、とワタシ自身は納得しつつある・・・。
それは、にんじんの種を蒔いてレタスが生えてくることがないように
「ヒト」は「生」に働き、ヒトとしての「性」の働きを共有している。
ワタシ自身の考察は以上であるが、まとめてみれば、非常にシンプル。
人人(にんじん)は一人では「ヒト」に成れないように成っている!
神様も一人では寂しいから、ヒトを創っているので、故に感覚はある。
操快堂 岡村郁生